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zoom RSS  仙人と私  杜子春を読み

<<   作成日時 : 2015/06/03 11:15   >>

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 芥川龍之介、明治25年・1892年生まれ、昭和2年・1927年死去。35歳でこの世を去った芥川龍之介の小説を幾つか読んでみました。中学生の頃、幾つか読んだ記憶もおぼろで、あらためて初めて読んだとでも言いましょうか。その小説には驚きでした。


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 芥川の人生観というか、生きるということの意味のようなものが、小説を通して表現され、それが35歳という若さで書かれていたということ。人生の後半にいる私が、やっと、それなりの意味を理解できるかなという感じです。独善的な考えになるかもしれませんが、思うままに書いてみようと思います。

 私は若かった頃、仙人に憧れたことがあるせいか、龍之介が書いた「仙人」や「杜子春」の話などに親しみを覚えます。今回は、それらの話にかんしてです。


 「仙人」の話ですが、ねずみに芝居をさせるのを商売にしている男の話です。その男、李小二ですが、ある日、商売から帰るところで、まちはずれのとあるみちばたの小さな廟の前で立ち止まったのです。そこで出会った老人とのお話です。

 そこで李が云った。

「どうも、困ったお天気ですな」

「さようさ。」老人は、膝の上から、頤を離して、始めて、李の方を見た。鳥のくちばしのように曲った、鍵鼻を、二三度大仰にうごめかしながら、眉の間を狭くして、見たのである。

「私のような商売をしている人間には、雨位、人泣かせのものはありません」

「ははあ、何御商売かな」

「鼠を使って、芝居をさせるのです」

「それはまたお珍しい」
 
 こんな具合で、二人の間には、少しずつ、会話が、交換されるようになった。

 李は、この老道士に比べれば、あらゆる点で、自分の方が、生活上の優者だと考えた。そう云う自覚が、愉快でない事は、勿論ない。が、李は、それと同時に、優者であると云う事が、何となくこの老人に対して済まないような心もちがした。彼は、談柄を、生活難に落して、自分の暮しの苦しさを、わざわざ誇張して、話したのは、完く、この済まないような心もちに、煩わずらわされた結果である。

「まったく、それは泣きたくなるくらいなものですよ。食わずに、一日すごした事だって、度々あります。この間も、しみじみこう思いました。『己おれは鼠に芝居をさせて、飯を食っていると思っている。が、事によるとほんとうは、鼠が己にこんな商売をさせて、食っているのかも知れない。』実際、そんなものですよ」

 李は撫然として、こんな事さえ云った。

 すると、その話の途中で、老道士は、李の方へ、顔をむけた。皺の重なり合った中に、おかしさをこらえているような、筋肉の緊張がある。

「あなたは私に同情して下さるらしいが」こう云って、老人はこらえきれなくなったように、声をあげて笑った。烏が鳴くような、鋭い、しわがれた声で笑ったのである。「私は、金には不自由をしない人間でね、お望みなら、あなたのお暮し位はお助け申しても、よろしい」

 李は、話の腰を折られたまま、呆然として、ただ、道士の顔を見つめていた。

「千鎰や二千鎰でよろしければ、今でもさし上げよう。実は、私は、ただの人間ではない」老人は、それから、手短に、自分の経歴を話した。元は、何とか云うまちの屠者だったが、たまたま、呂祖に遇って、道を学んだと云うのである。それがすむと、道士は、しずかに立って、廟の中へはいった。そうして、片手で李をさしまねきながら、片手で、床の上の紙銭をかき集めた。
 
 李は五感を失った人のように、茫然として、廟の中へ這いこんだ。両手を鼠の糞とほこりとの多い床の上について、平伏するような形をしながら、首だけ上げて、下から道士の顔を眺めているのである。
 
 道士は、曲った腰を、苦しそうに、伸ばして、かき集めた紙銭を両手で床からすくい上げた。それから、それをてのひらでもみ合せながら、せわしく足下へ撒きちらし始めた。そうそうぜんとして、床に落ちる黄白の音が、にわかに、廟外の寒雨の声を圧して、起った。――撒かれた紙銭は、手を離れると共に、たちまち、無数の金銭や銀銭に、変ったのである。………
 李小二は、この雨銭の中に、いつまでも、床に這ったまま、ぼんやり老道士の顔を見上げていた。

 そして、李小二は、陶朱の富を得たのです。たまたま、その仙人に遇ったと云う事を疑う者があれば、彼は、その時、老人に書いて貰った、四句の語を出して示すのである。この話を、久しい以前に、何かの本で見た作者は、遺憾ながら、それを、文字通りに記憶していない。そこで、大意を支那のものを翻訳したらしい日本文で書いて、この話のおわりに附して置こうと思う。但し、これは、李小二が、何故、仙にして、乞丐をして歩くかと云う事を訊ねた、答なのだそうである。

「人生苦あり、以て楽むべし。人間死するあり、以て生くるを知る。死苦共に脱し得て甚だ、無聊なり。仙人はしかず、凡人の死苦あるに」

 恐らく、仙人は、人間の生活がなつかしくなって、わざわざ、苦しい事を、探してあるいていたのであろう。以上。

  * * * * *

 さて、有名な「杜子春」の話ですが、杜子春は仙人の力により幾度か大金持ちになったかとおもうと、無一文になってしまう繰り返しに虚しさを覚え、仙人の弟子にしてくださいとお願いしたのです。
 仙人は杜子春を、峨眉山へつれていき、自分が天上へいってくるあいだ、どんな魔性があらわれても、一言でも口をきいたらいけないと言ったのです。が、杜子春は、あの世で畜生となった父母が鬼たちに鞭うたれるのを見て、たまらず「お母さん」と一声叫んだのです。

 戻ってきた仙人は、杜子春に言ったのです。

「もしお前が、父母が鞭うたれるのをみて黙っていたら、即座にお前の命を絶っていたと」

「お前はもう仙人になりたいという望みももっていまい。大金持ちになることは、もとより愛想がつきたはずだ。ではお前はこれから後、何になったらいいと思うな」

「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」

「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇わないから」
 
 仙人・鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、

「おお、幸い、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、

さも愉快そうにつけ加えました。


*「仙人」「杜子春」の話ですが、いかがでしたか。思えば、若かりし頃、私もどこかでひとりの仙人に出会ったような気もします。それは、夢のなかだったか。「なにげない毎日、こうして人間として生まれてきたこと。それを、楽しまなくては」そんなような声を、私も聞いたきがするのです・・・・・。上の写真は、家の小さな庭に咲く小さなあやめです・・・・・。きょうは、久しぶりの雨の朝でした・・・・・。


 「仙人と私」

いく年月が経っただろう

今年もツバメが
水田の上を気持ちよく
滑降して行きます

見えない世界へ
いってしまった
おとうさん おかあさん
どれだけの愛に包まれて
いたのだろう そのぼくが
ひとつの 家庭を持ち
しあわせ家族です

軒下のツバメの巣の
雛たちに食事を与える
親鳥たちの自然な姿
生きているだけで
しあわせなのに
先に逝ってしまった妹

見えない世界で
幸せに暮らしていますか

いつからか
生きていくことが
苦しくなっていたのだろう
耐えきれないほどに

でも きみのやさしさと愛は
どれだけおもっても
かかえきれない
残された子供たちは
その愛をいっぱい胸に

人はみな いつかは
この世から旅立ちます
ならば 疲れたら休み
子供たちの笑顔に
元気をもらいながら

自然に  生きていけたらな





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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは。

美しい菖蒲の花の紫ですね。
私の家の近くにも、畑の一角に菖蒲の花が咲いていますよ。

自然の天然色っていいですね。ふーちゃんがこの記事書かれていた詩のように、自然に生きていけたらいいですね。自然の花の色から、美しい生命が感じられるように、人もそうあれたらいいなと・・・そう思いました。
eri
2015/06/03 16:12
eriさん、こんばんは。自然っていいですね。自然に咲く花たちの、なんと美しいことでしょう。仙人って自然とともに、宇宙の気とともに生きている人を指すのかもしれませんね。私たち凡人は喜怒哀楽に呑み込まれてしまいますが。でも、それはそれで、自然でありたいですね。eriさん、いつもコメントありがとうございます。
ふーちゃん
2015/06/03 19:43
ふーちゃんさん、こんにちは。
関東も梅雨入りしました。昨夜から、本降りの雨です。今日はお仕事お休み、雨も雨音も大好きな私としては気分上々の休息日です。
「仙人」「杜子春」は、賢治の作品と似ていますね。見失いがちなものを思い出させてくれる人に出会うことがありますが、そういう人はもしかしたら仙人なのかもしれませんね。
自然に囲まれていると、人のイノチの儚さが思い起こされて切なくなることが多いです。逝ってしまった人のこと、想い出が蘇ってきます。とても悲しくて涙があふれてくるけれど、なぜか勇気が湧いてくるのです。みんな、見守ってくれているのでしょうか。
huo
2015/06/09 16:07
hukoさん、言われてみると不思議です。賢治と龍之介はおよそ同じ時代に生き、ともに36歳くらいの人生でした。賢治の作品と似ていますね。ですが、「杜子春」も童話として発表されたのです。みな同じ時代に生きると、その時代の何かがあらわれてくるのですね。
見えない世界ですが、もしあの世に地獄があるとしたら・・・。ふと、あの世もこの世もあまり変わらないのではと思います。hokoさん、生きるって不思議です。生きる勇気に感謝です。hokoさん、ありがとうございます。
ふーちゃん
2015/06/09 18:49

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